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What is 

W124

W124はメルセデスの歴史における金字塔

 1986年に登場したW124シリーズは、メルセデス・ベンツの理想主義を貫いて開発・生産された、メルセデス・ベンツ110年余の歴史におけるひとつの金字塔である。
 安全と品質を機能美に満ちたボディに包み込んだW124は、 最上であることを念頭において作られた本物のメルセデス・ベンツだった。だからこそ、生産開始から数えてまもなく35年、生産終了後30年近くを経た現在でも、充分に輝いている。

Das Beste oder nichts.
​最善か、無か。

すべてにおいて過剰! それが独特の味を生み出した 

 もちろん、1985年にW124が「ミディアムクラス」として登場したとき、それまでのメルセデス・ベンツに乗っていたオーナーたちはこぞって「こんな安物、ベンツじゃない」と陰口をたたいたそうだが、少なくともW124までのメルセデス・ベンツは、世界各国の数あるクルマの中でも特別の存在だったといっていい。21世紀を迎えて久しい今でこそ、500馬力オーバーの量産車を惜しげもなく市場に投入し、快進撃を続けているメルセデス・ベンツではあるけれど、明らかにW124までのベンツとは異なっている。


 では、それはいったい何だろう?
 W124までのベンツは、その走り味は特別であり、その耐久性も特別であり、その安全性も特別だった。また、機械としてみれば、W124までのベンツはここまでやるか!というほどの過剰なクオリティを与えられたクルマだった。鉄板しかり、組み立て工程しかり、そしてエンジン、ミッション、サスペンション、インテリア等々、すべてにおいて必要以上に過剰ともいえる素材と設計と加工技術を与えられ、結果、過剰なクオリティと性能、それに品質を有していたのだ。だからこそ、「特別な」フィーリングを持ち得た。メルセデスに乗り込み、ドアを閉めた瞬間に、「メルセデス・ベンツはボディが違う!」と誰もが感じたあの感触。その感触こそが、過剰なクオリティの過剰なボディが与えてくれる感触に他ならない。それは、過剰なベンツにしかなく、たとえ色々と真似はしているけれども、過剰ではない他のクルマは決して持ち得ない感触だと思う。


 今のベンツとW124までのベンツが徹底的に異なるのが、この「過剰さ」なのではないだろうか。
 もちろん、現在のメルセデスだって、安全も品質も有していることには何ら変わりはない。

 では、どうして? それは、メルセデスという企業が、メルセデスというクルマが、というよりも、メルセデスを購入するユーザーの中にある価値感の変化、世の中全体の価値観の変化によるものなのかもしれない。W124までの時代は、安全や高品質、そして耐久性といった見えない価値に対してユーザーが価値を見いだし、それを認め、そうしたものに対してお金を払っていた時代だった。


 現在のメルセデスは、W124の時代とは違った、新しい価値観を提案し始めているのだし、それが何であるのかは、最新のメルセデスに乗れば、自ずと見えてくる。ただ、言えることは、W124までのメルセデスは、1年間で1万㎞しか乗らないユーザーにも、1年間で10万㎞乗るユーザーにも、まったく同じように10万㎞乗ることのできるクルマを提供していた。だからこそ、1万㎞しか乗らないユーザーも喜んで10万㎞分のお金を払っていた、そういうことなのだろう。

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なぜいま、W124なのか? 

 現在の先進社会は世界的に行き詰まっている。産業も経済も政治も大変な状況にある。

 資源が有限であることと、大量消費が環境破壊につながるということに世界がやっと気づいたのも、その一因だ。もともと経済と社会の行き詰まりの要因は、「大量生産と大量消費」にあった。買い換えを誘う頻繁なモデルチェンジ、強引な宣伝広告。こうして無理矢理需要をつくりあげてきた結果、 使い捨て というライフスタイルが生まれてしまった。

 これは一方で、何でもお金に換算してしまうという利益第一主義を助長し、効率化が声高らかに叫ばれ、その結果、世の中を別の方向へと導いてしまった。ファッション業界しかり、音楽業界しかり、自動車産業界も、家電業界も、どれも頻繁なモデルチェンジと使い捨てで、本来のあるべき姿や多くの伝統を押し流してしまった。

 こうした流れの対極にあったのが、W124までのメルセデス・ベンツのクルマづくりではなかったか。

 

 行き詰まりを迎えた社会は、大量生産・大量販売・大量消費・金銭換算・効率至上主義というライフスタイルの見直しを余儀なくされ、社会の流れは当然ながら伝統的なものへの回帰の動きとなるはずだ。 もちろん、すでにどこかへ追いやられ、忘れられようとしているのかもしれないけれど、かつてのW124の頃のものづくりの姿勢が、この先ここしばらくの人間の生き方のひとつの柱となりはしないだろうか。

 

 つまり、ものを大切にする姿勢と、メーカーの職人ひとりひとりの自分の仕事に対する自信と自負。こうした結果生まれる、顧客とメーカーの二人三脚、といった風潮が見直されつつあるのではないか。だから今こそ、W124なのである。

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W124は中古車で見つけたら積極的に買うべきクルマだ

 世の人々がメルセデス・ベンツに惹かれる理由は、ひと口では言い表すことはできないだろう。気品、デザイン、機能、歴史等々、総合的な魅力の上に成り立っているからだ。
 でもボクは、ただ単にメルセデス・ベンツというクルマを手にいれればいいのだとは思わない。メルセデス・ベンツを手にするには、それなりの背景と心構えとプロセスが必要だと考えるからだ。単に「モノ」としてのメルセデス・ベンツを手に入れるだけなら、方法はいろいろとある。しかし、ボクらがメルセデス・ベンツを買い求めるのは、単なる「モノ」としてのメルセデス・ベンツではないはずだ。


 W124を造っていた頃のメルセデス・ベンツは、1台のクルマを8年間、理想を追ってたっぷりと惜しみない費用をかけて開発した。そして完成した後でそれまでかかったコストを計算して、この先何年かけて何台販売するかによって割り算し、車両価格を決めていたのである。
 この世には、そんなやり方をして開発・販売している商品機械など他には存在しない。そうしたクルマを作りをしていたからこそ、ベンツはあの異常なまでのクオリティを実現していたのであり、W124は完全なオーバーエンジニアリング、完全なオーバークオリティだった。


 だから、W124は20年落ちの中古車であっても、今なお積極的に買うクルマだと思う。決してお金がないからしかたなく旧型を中古で買うというクルマではない。W213が登場し、すでに4モデル落ちとなった現在でも、あえてW124を買う意義は十分にあるのだ。


 良い道具は、使い込むほどに手に馴染む。もちろん、それ相応のメンテナンスは必要であるけれども。
 W124は生産が終わってからずいぶん経つ。だから、いろいろなところに不具合が出て壊れるかもしれない。でも、きちんと直せば、ちゃんと元に戻る。それはクルマの基本となる基本設計とボディがものすごく良くできているからだ。

 

 しかし、ここで間違ってはいけないのは、中古車はお金がかかるものであるということを肝に銘じる必要がある。中古車というものはいろいろな部分が劣化してきている分だけ、新車の値段から安くなっている。乗り味を元に戻すためにはそれ相応のお金がかかるのは当然のこと。ただ、W124が凄いと思うのは、ダンパーやらエンジンやらミッションやらを、例えば50万円かけて修理すれば、50万円分の効果が現れる。

 だからこそ、W124にはお金をかける価値がある。極端なことをいえば、新車に戻そうと思えば戻せてしまうのが、W124というメルセデスなのである。

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